花コリ2015東京会場レポートファンボ・セビョル監督トーク録


花コリ2015東京会場レポートファンボ・セビョル監督トーク録
「ファンボ・セビョルの作品世界~心理から映像への過程を追って」

2015年5月9日(土)アップリンクファクトリー
ゲスト : ファンボ・セビョル(「デフラグ」監督)
司会 : 横田正夫(医学博士、博士[心理学])
通訳 : 田中恵美、チェ・ユジン

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★『デフラグ』トレーラー

「デフラグ/디스크조각모음/Defragmentation」2014/14:02
デフラグ(断片化されたデータの整理)というデジタルプロセスと、人間の思考過程とを隠喩的に置き換えてみて、価値の両義性、アンビバレンスつまり矛盾した心理を表現しようとした。
作品説明:”デフラグ(デフラグメンテーション)”とは、コンピューターの記憶装置(ハードディスクなど)において、データの削除と記録の繰り返しによってデータの保存領域が細切れになってしまった場合に、記憶装置を効率的に作動させるため、断片化したデータを整理してデータを再配列するシステムである。本作では、このデフラグのプロセスをナラティブ(物語的な)構造へと置き換え、3つのエピソードを再配列した。各エピソードのナラティブ単位は、固有のカラー値に分類され、カラー値によって消去され再結合される。各エピソードの主人公にとって、消去されるナラティブの単位は「耐えがたい苦しみ」の記憶だ。消去されないナラティブ単位は、消去された単位のすき間を埋めながら再結合される。そして、消去された記憶は、はじめから存在していないかのように処理されていく…。

Director's note
コンピューターのプロセスは、人間の脳のシステムに似ている。しかし逆に言えば、効率を重視する人間の姿は、まるでコンピューターの回路によってデジタル化されている思考のようにも思える。ならば、効率を最優先させるこの世界のシステムように、人間もデジタル化されて効率的に生きる方が良いのだろうか? そんな疑問が思い浮かぶ。私たちの中にある「苦しくもあり、うれしくもある大切な記憶」は、デジタルデータのように断片的、非蓋然的には分離できないアンビバレンス(両面価値)を含んでいる。


横田正夫(以下、横田):昨年、韓国で『デフラグ』がグランプリを取った時に拝見していて、非常に心理的な作品であると思っていたので、今回対談できることを非常にうれしく思っております。
一回だけ観てもなかなか、ちょっと分かりづらいところがあるかと思います。監督さんと先ほど話をしていて理解できたのは、一番最初のイメージとしてあったのが、一番最後の出来事であったということです。一番最後の出来事は心理学的に考えると、かなり深層レベルのテーマを扱っている、つまり地層がどんどん深まってゆく中の、その底の方に動物と、私は女性だと思ったんですが、ご本人によると女性ではないそうですが、性は同定できないようなキャラクターを置いているそうです。なので深層的な意味をそこに込めているのですが、どこからそういう発想が生まれたのかをお聞きしてみたいと思います。

ファンボ・セビョル監督(以下、監督):もともと、私は人間の二重性というものに興味がありまして、人間の中にある両価性(アンビバレンス)を映像で表現したいと思っていました。その中で素材を探していたのですが、韓国に38度線の一帯に非武装地帯がありますが、こちらはご存じのように、朝鮮戦争という非常に不幸な出来事によってできた空間ではありますが、しかし人が入らなくなったことで、非常に美しい自然が保たれている場所でもあります。天然記念物のような珍しい動植物がたくさん暮らせるような場所です。過去の戦争の残骸も多く残っており、残っていた地雷で動物がケガをするような事象も起こるさまざまな影響が混在した場所です。このような過去現在未来という時間、また空間、こうした物の二重性が共存する空間というのを知ることになり、3番目のエピソードを最初に発想しました。

横田:皆さんご覧になってお気づきになったかと思いますが、地層ごとに、地層の合間に武器が散在しているんですね、最終的に主人公がその動物達と住んでいる場所から決別するきっかけになるのが、攻撃されるということですが、攻撃された後で、さらに自分で自分と一緒に暮らしていた動物たちを自分で殺害することにより過去に決別するという風な流れになっていたかと思います。決別するための決意が相当のものであったのと、外部からのインパクトがないと決別することができないほどに、深層が魅力的であったのだと思えるのですが、いかがでしょうか?

監督:先ほども話しましたように、人間の両価性(アンビバレンス)の面について表現したかったのですが、3番目のエピソードというのは、1番目と2番目のエピソードの主人公とは違う立場を描いています。1番目と2番目のエピソードに出てくる主人公というのは、ある意味、何か邪魔な存在から被害を受ける被害者のように描いていますが、3番目のエピソードというのは、被害者ではなくて、むしろ自ら攻撃をするような攻撃的な存在、加害者になりうる、つまり人間は同じ人物でも、見方を変えれば被害者にも加害者にもなりうることを、描こうと思いました。

横田:それはよく伝わっていると思います。順番に遡る感じでお聞きしたいと思いますが、2番目のエピソードだと父親にあたる人が認知症を患い、施設に預けるという形で、関係を切るということになっているかと思うんですが、その関係が切れることで次のステップである、女の人との関係性が生まれるという風になっていたかと思うんですが。何かを切らないと次に行けない、というような流れができていた、ということでよろしいですか?

監督:決別すると同時に、その対象になった相手がいなくなることで、自分が成功することもありますが、それを失うことによる寂しさや孤独感、というのも同時に生まれます。そういう対象自体がなくなってしまったことへの虚無感や孤独感も、同時に表現しています。

横田:その辺が第一エピソードの女の人が、子どもを手放した後で仕事を得るためのプレゼンで成功した後で、虚無的な表情をするところに、よく表れていたように思います。

監督:1番目と2番目のエピソードは、おっしゃったように3番目のエピソードが観念的なものとするならば、それの具体的な例と捉えていただければよいと思います。

横田:日本的な感覚でいうと、アニメーションはキャラクターが勝負みたいなところがあると思うんですが、第1エピソードのキャラクターは顔がとろけるが、第2エピソードでは男の人の飲んでいるスープのドロドロ流れるような表現になってきていて、キャラクターを魅力的に見せていないところもありますが、その辺の何か意図があったのでしょうか?

監督:私はもともと、言語や表情のような、社会的な記号的なもので直接的な表現をするのが、あまり好きではなくて、それよりも視覚的に象徴的に表現をする方法でやっていきたいと思うので、ああいう形の表現になりました。

横田:顔はあまり饒舌ではないが、衣服の方がかなり饒舌な感じがして、第1エピソードの場合は、成功体験が伴うと同時に衣服が身体全体をふくよかに覆っていくし、第2エピソードの場合には、男性が女性とデートを重ねるときにカラフルな衣服になるという風になっていったかと思います。

監督:先ほどお話したことの延長線上にありますが、私が外側に現れるもの、例えば、この場合ですと洋服ですとか、装飾ですとか、そういう物を通じて表現していくことが、例えば、言葉とか表情で表現していくよりも、そちらの方が好きなのだと思います。

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横田:画面をみると、画面が常に揺れているような感じがするし、周辺はあまり輪郭が明瞭でなく描かれているけれど、一番明瞭なのが右上にある色のバーだった。その辺も現実の二面性を描くということにつながるのでしょうか?

監督:この作品では心理的なもの、過去の記憶ですとか、無意識な人間の中の内面について表現したかったので、このように画面を震わせたりして、生々しい感じを出していったりですとか、背景に描かれる要素なども、空間に対する説明をなくし、できるだけ必要最小限なものにしぼったりというところを工夫していきました。

横田:曖昧さということでいうと、画面が色がなくてほとんど白っぽいというのがメモリーの場面で、色づけしてあるところが右上の色バーだけでですが、カラフルになるのが、成功体験があったような、ある種絶頂体験の時にカラフルになるという風に描かれていたと思うんですが。

監督:過去の何か一つの瞬間を記憶する時というのは、最もインパクトの強い一場面だけを記憶していて、その他の要素は消えてしまうことがあると思うんですが、そういったことを画面で表現したいと思いました。

横田:そうすると一番よく記憶に残っているのが、絶頂体験じゃない、子どもが自分の将来を邪魔するような場面で、頭が髪の毛そのもの、上半身全体が化け物のようになってしまうとか、ああいう体験が、心理的な意味での「自分を妨げるもの」という形で色鮮やかに登場するということですか?

監督:その時の心理状態をデフラグの前後にどう感じているかを、できるだけ明確に表現するために、子どもを化け物のような形に変形させて、それがその状態が終わった後には元に戻るという表現にしています。

横田:感情的に非常に強いものがあるということと、感情的に受け入れていられるような状態の両方があって、消去するのは、過去の受け入れ難い自分に敵対しているような記憶だけであった、ということですよね。

監督:わざと否定的な表現にしていこうと、わざと否定的な対象として、子どもなり、父親なりと表現していったわけですが、結局それは消すことができないものであり、そういった人間の中の否定と肯定の両価性、二面性のものを、主人公に対して、「あなたはどう思っているのか?」を、感覚としてどう思っているのかを問いかけるような内容になっています。

横田:最終的に第三者が同じ3つの場面を同時に消去してしまうということですから、それはある種、神のような存在か、我々が勝手に考えればいいんでしょうけど、全体を操作するような何かが、パソコン画面上で一気に消去してるようにみえるんですが、それはどういう意図ですか?

監督:何かによって記憶を消されるということは超現実的なことなので、いわゆる一般的な起承転結として表現したくはありませんでした。ある一定の視点を提示せず、ディスクの中身を断片化する過程を強調したかったので。この作品は、遠い未来に誰かがこのデータを発見して、記録された何かを見るかのような感覚を出したかったのです。

横田:記憶を消すという作品は、実は今日上映されてはいないんですが、彼女の一番最初の『Robout』という作品が記憶を消す作品になっているんですが、その記憶を消す一番最初の処女作と、今回の記憶を消すということの関係はどういう風に意識されているのでしょうか?

監督:私は過去の記憶について考えることを大切にしてきましたが、それを感覚的に表現したかったのですが、それが自分がいろいろなことを経験するにつれて、徐々に考えの範囲が広がって拡張しているように思えます。


★デビュー作『Rubout』

「Rubout/지워버리자」2007/7:25/Cut-outs, Rotoscope 
地下鉄事故現場に閉じ込められた夫とその事実を知ってしまった妻はお互いのためのうそをつく。


横田:『Robout』の説明をしますと、鉄道事故で列車が川に落ちそうになっている時に、事故車両に乗っているご主人と、夕食にサバを買って帰った奥さんと電話で会話するという話で、奥さんの方は彼が事故車両に乗っていることに気づいてしまうんですが、彼は手元に持っていた2人で写っている写真の自分だけを消してしまう、写真を消すと彼女の中の彼の記憶が全部消えてしまう、という話になっています。記憶を消すということに関しては、今回の作品と似ているということで、お聞きしました。

監督:その時はそういう内容を作りましたが、先ほど考えが拡張したと言ったのは、その作品を作った時は、記憶を消してしまうという、ある意味では自分の立場だけを考えたキャラクターの非常に利己的な姿を表現したとしたら、今回は複雑な心理内で相反するさまざまな感情に重きを置く方向へと拡張しました。

横田:今回のは第3作目に当たるということですが、処女作から作品が発展しているように思います。第2作目は、第3作目とどういう関係にあるのでしょうか?

監督:2番目に『VIEWPOINT』という作品を作ったのですが、この作品では自我や挫折感を描いたもので、その時は本当に自己の心理のみに重きを置いて作ったと思うんですが、今回の『デフラグ』では、自分の視点を敢えて外に置いて、いろいろな視角から登場人物の感情を考えていく作業ができたと思います。



★『VIEWPOINT』トレーラー

『VIEWPOINT/관점』2011/7:00/Drawing, 3D Computer, Rotoscope
幼少期に受けた心の傷がトラウマとなって、髪の毛の塊になってしまった少女。彼女の本当の姿とは?

Director's note
精神分析家のイ・ムソクは「自尊心や劣等感は客観的な基準に基づくものではなく、観点(Viewpoint)の問題だ」と語る。この作品を通じ、これまでの人生でさまざまな傷を受けて自尊心を失ってしまった人々に「それはあなたの観点の違いが原因なのだ」と伝えたかった。あなたは相当に辛い経験をしたのだろうが、だからと言って自分を蔑む必要はない。自分で自分を低く評価しているから見すぼらしく感じるのであり、あなたは十分に魅力的な人間なのだ。まずは主人公の視点で記憶を遡り、過去を回想してみる。次に彼女がそれをどのように感じ、認識したのかイメージ化させる。そして、それが実際の姿とはどのように異なるのかを伝えるのが目的である。この作品に現れる状況やイメージは、あらゆる人々の経験を象徴しうるものであり、様々な立場からの解釈が可能だと考える。 

★インディ・アニフェスト2011観客賞
☆第11回(2012)チェコ・アニフェスト コンペティション部門
☆第16回ソウル国際漫画アニメーション・フェスティバル(SICAF2012)公式コンペ短編一般部門


横田:そうすると、前作では自分の視点に捉えられて社会を観ていた、ところが今回は3つの視点からそれぞれ独立して社会を観られるようになった、ということかと思いますが、より相対的に客観視できるようになったということでしょうか?

監督:そうだと思います。作品を作りながら自分自身が成長していくことは自然なことだと思いますが、そういう脈絡で観ていただければいいと思います。

横田:そうすると次のステップには、どういう方向で行きたいのでしょうか?

監督:次にこれから作ろうとしている作品は、過去を対象にはしているのですが、過去に愛していたものが消えてしまい、自分はこれからどう生きていったらいいのかがテーマの作品になっています。これまでの作品が現在までを捉えているとしたら、今度の作品は、これからどうしていったらいいのかを表現する作品になると思います。

横田:私は心理学者なので、心理学者的に考えるとアニメーションの持っている一つの力として、自分で作らざるを得ない、自分で全部完成させるということから、自己治癒力という言い方をしますが、自分の中にあるものを作品化することで、それを消化し、消化というのは食べ物を消化するという意味で精神分析的な意味での昇華ではないんですが、食べ物を咀嚼して自分の身体に役立てていくというような意味合いが、アニメーションを作るという過程の中にあるんだなぁと感じさせられました。

監督:これまでの作品は、自分の中に溜まっていたものを吐き出していくような作品の作り方だったと思います。そういう作り方をしていながらも、作品を通じていろいろな方とコミュニケーションをとることで栄養を得られた、それがとても自分にとって良かったことだと思います。

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<質疑応答>
観客1:横田先生が質問された中で視点の問題、特に今回の上映作品を観ていても韓国のインディペンデントの作品であっても、皆さんテーマに対して客観的に一旦、テーマを客観視して、それを作品のシナリオなりコンテなりにうまく落とし込んで設定しているように見受けられます。日本のインディペンデントのアニメーションにおいて、今、その部分がものすごく弱いと感じます。今日のプログラムでも東京の藝大院に留学されていた方の作品があるんですが、その方の作品は視点がものすごく内側に向いていて、客観視が足りないように見受けられました。それは韓国の方の資質というものではなくて、例えば制作上のプロセスにおいて、何か客観視するようなことがちゃんと学ばれているのか、それともシステムとしてアドバイスをする人がいるのかどうか、どうなのでしょうか?

監督:私の感じでは、特別に教育を受けたりということではないと思います。あくまでもそれぞれの性向だと思います。例えば対象に対して、客観的に外側からアプローチして考える人もいれば、内面を深く掘り下げる人もいる、そういう思考の違いではないかと思います。あくまでその範囲ではないかと思います。
私自身の中でも、最初の作品に比べて今回の作品の方がより客観性が増していると思うので、個人の中での変化というのもあるのではないかと思います。

観客2:作品とはちょっと離れてしまうのですが、韓国のインディペンデント系のアニメーションの環境として、例えば日本の場合だと半アマチュアだったり、もちろんプロの方もいらっしゃるんですが、今、観ているとわりとCJだとか、そういったスポンサーがついていたりして出資がされている環境が整っているのかな、という風に感じたのですが、作品をつくってそれから評価されて、更にキャリアを積んでいくという流れが、あるのでしょうか?

監督:韓国の場合には、作家として作るアニメーションの場合には、文化財団などの支援を受けて作るケースが多いと思います。もちろん個別の環境などにもよると思いますが、支援を受けた方がより安定して作品をつくっていけるというのはあると思います。
支援を受けて作ったことによって、高い評価を得ているというわけではありませんが、実際にそうやって作品を作るという経験を重ねることによって自分の企画力が向上したりとか、自分を進歩させるきっかけの理由の一つにはなっていると思います。

横田:私の立場でみると、こういう上映会を組織するKIAFAという組織そのものの持っている組織力というのが非常に強いと思うので、ユジンさんにちょっと説明してもらいましょう。

*セビョル監督の韓国語通訳をしていたKIAFAチェ・ユジン事務局長が急遽発言することに。
インディ・アニフェストや花開くコリア・アニメーションの運営などを統括しています。

横田:著作権の管理もやっていますし、配給もやられるということなので、組織力としては中核になる組織が韓国にはあるので、それは非常に強いことだと思います。

チェ・ユジン(以下ユジン):制作の環境について説明すると、韓国では政府からの支援があり、KOCCAという韓国コンテンツ振興院という機関でアニメーションの制作支援を行ったり、ソウルアニメーションセンターというソウル市が運営する機関なんですが、そこでもいくつかの制作支援を行っています。『デフラグ』を支援したCJ文化財団は去年もいくつかの短編作品に支援しており、このように企業が支援しているケースもいくつかあります。作品の経歴があって、次の制作支援をもらう時に役に立つかどうかは、一概には言えないと思います。実は審査委員の中にはアニメーションに詳しくない人がいる場合もあるので、プロジェクトの企画を提出して、その内容やシナリオの評価によって支援がもらえるかどうかが決まる仕組みになっています。

横田:KIAFAの組織の説明を簡単に。

ユジン:韓国インディペンデント・アニメーション協会は、制作している作家たちの権利を保護するために作られた団体です。主な事業は花コリの母体となっている、韓国ソウルで開かれているインディ・アニフェストという映画祭の主催や、2010年から配給事業も行っているのですが、作品を作ってもそれを見せる場所がないという作家たちからの強い要望があり、そのために配給を主な事業として、映画祭、さらに巡回上映という形でいろいろな場所で作品を上映し、観客との出会いの場を作っています。監督もゲストに呼び、観客と語り合い、作品の反応をみたりなど、コミュニケーションを大事にすることで自分の次の作品に生かすことになっていると思います。

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横田:補足すると、インディ・アニフェストで上映される作品は1年間に韓国でつくられたもので、インディペンデントの作品がそこで全て観られるという環境があって、しかも作った監督がほぼ全員参加して、手弁当でやっているんですよね。日本でもインディペンデント系の上映会はありますが、毎年やるというのを組織的にやっているケースは日本では残念ながら、ないと思います。それを韓国の場合は毎年やっています。今年も9月にやりますが、そこでグランプリなどの賞を与え、受賞した作品を海外でも上映する事業をやっていますし、こういう上映会もそうですが、その組織力はすごいなと思います。


ファンボ・セビョル(「デフラグ」監督)
建國大学校映像アニメーション学科1期生。卒業制作の「Rubout」はインディ・アニフェスト2008 でKIAFA特別賞を受賞、前作「VIEWPOINT」は2011年の同映画祭で観客賞を受賞。今回上映の 「デフラグ」は広島国際アニメーションフェスティバルでコンペインし、インディ・アニフェスト 2014大賞を受賞。国内外の多くの映画祭で作品が上映され、CF映像なども多数手がける気鋭のアニメーション作家。

横田正夫(よこた まさお/医学博士、博士[心理学])
日本大学教授(映像心理学・臨床心理学)。日本アニメーション学会元会長。 日本大学芸術学部映画学科映像コースでアニメーションを学ぶ。その後、映像理論を心 理学的に解明したいと考え、大学院で心理学を学び、日本映像学会においてその成果を発表する。日本アニメーション学会の設立後、理事として学会運営に参加するとともにアニメーションについての研究の発表を行う。アニメーション関連の著書は「メ ディアにまなぶ心理学」有斐閣(1996、共著)、「アニメーションの臨床心理学」誠信書房 (2006、単著)、「CineAnimationS」Corlet( 2007、共著)、「アニメーションとライフサイクルの心理学」臨川書店(2008、単著)、「日韓アニメーションの心理分析」臨川書店(2009、 単著)、「Japanese Animation: East Asian Perspective」 University Press Mississippi (2013, 共編著)、主なアニメーション関連論文にはThe Japanese puppet animation master: Kihachiro Kawamoto(2003)、A master animator: Yasuji Mori’s works for children(2004)、Satoshi Kon’s transition from comics to animation(2004)、「日韓の長編アニメーションの心理分析 ―「Green Days~大切な日の夢~」と「コクリコ坂から」」(2012)がある。
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